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2013-09-20

DANGEROUS Tour in中東~Europe '93 (日文)

DANGEROUS Tour in中東~Europe '93

Tel Aviv , Istanbul , Tenerife / Gstaad
來源:mjfcmoonwalk.com オランダのファンクラブ誌 『TRIBUTE』 に掲載された “マイコー追っかけ記”。
 '93年9月のDANGEROUSツアー中のマイケルの様子や オフ日の様子など、一般紙では伝えられなかった細かいフォローで綴っています。
 マイケルとファンとのコミュニケーション場面では、直接会話が出来たりしていて、マイコーがファンに対して想っている気持ちが伝わってきますよ!
 
 そして、ツアー中に体調を崩して スイスのリズの別荘へ行ったマイケルの元へも訪れ、マイケルと40分ほど会話した時のこと…
 その時のマイケルの心境を思い浮かべながら読んでみると、マイケルとファンとの強い信頼感で結ばれた絆が見えてきます。




テルアビブ(イスラエル)   イスタンブール(トルコ)   テネリフェ(スペイン)
番外 : リズの別荘 - グシュタード(スイス)

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TEL AVIV= テルアビブ@イスラエル =

 私は、イスラエルでマイケルを見逃すことは何が何でも出来なかった。
 ショウ自体も、オフ・ステージでの出来事も素晴らしく、マイケルだからこそ出来るマジックに満ちていた。






 今ではどこでも見かけられるファングループ達とテルアビブに着いたのは、9月17日(金)のことだった。
私たちは、マイケル一行が税関を通ったほんの数分後、空港に着いた。 私たちはマイケルを待つことにしたのだけれど、彼は別のゲートから出ていたという事が数時間後に判った。
 でも、そんな事にはへこたれず、私たちはテルアビブ・ビーチに隣接しているマイケル宿泊のホテル 『ザ・ダン』 へとタクシーを飛ばした。

 ホテルに着くと、マイケルが今着いたばかりだというのがすぐに判った。 イスラエルのマイケルファン達が詰めかけていたのだ。
 生まれて初めてマイケルを見て感激している沢山の女の子たちが歩道に座り込んでいた。



 最初の晩、さっそくマイケルは近くの遊園地ハヤルコン・ルナパークへ行く計画を立てた。
 それは秘密のはずだったのだけど、マイケルが遊園地に着く頃には何百人というファンが通りを埋めていて、マイケルのバンを囲んでしまった。 何度か脱出を試みたものの、セキュリティーがマイケルを降ろすのは危険だと判断したために、わずか10分いただけでその場を去ってしまった。
 伝えられるところによると、マイケルはその夜遅くに再び訪れて楽しんでいったという事だ。

でも彼らが去る前に、私はラッキーにも、マイケルを見られるくらいバンに近づけた。
 その時私は、子供たちの周りにマイケルの詩を書いたポスターを持っていた。
 マイケルはそれに目を留めると、手を口元に持っていき、そして私を指差した。 警官が私を遠ざけようと押している時もマイケルの指は私を追っていたので、“ポスターをあげる” と合図した。
 私は警官に、“マイケルがこのポスターを欲しがっている” と説明すると、ついに警官がポスターを持ってバンの反対側へ行ってくれた。
 マイケルは窓を開け、殆んどジャンプするように両方の手でポスターを受け取ると、振り返って私に最高の微笑みを返してくれた。
 …とっても嬉しかった。

 マイケルの滞在中はたくさんの人がずっとホテルの周りに集まっていて、マイケルが出てくるかもしれないという時はいつでも大騒ぎをしていたし、本当に見た時にはもう気が狂いそうだった。
 マイケルには彼らの愛のサポートがちゃんと解っていたけれど、彼がホテルを離れる時はいつもクレイジーな事になってしまう。 人々は足を踏み鳴らし、しょっちゅうマイケルのバンはファンに囲まれ、脱出するのも大変だった。
 マイケルはとてもにこやかで、その騒ぎを楽しんでいるようだった。



マイケルの部屋には海の見える大きなバルコニーがあって、次の朝に私たちが泳ぎに行くことにしてマイケルの部屋を見ると、マイケルが窓際に立っているのが見えた。
 話は出来なかったけれど、その後何度もバルコニーに姿を見せた。

 が、 "バルコニー" は、後々これだけでは終わらなかったのだ。



 9月18日(土)の午後、キリスト生誕の地エルサレムへとマイケルは向かった。
 マイケルに付いて行くのはワクワクする事だったけれど、結局私はマイケルのプライバシーを尊重し、ホテルに残ることにした。

 私が戻ってみると、イスラエル人が彼らの安息日である土曜日のマイケルの訪問に腹を立てて追い返し、マイケルのバンが町の 『禁断の地』 に入ると石を投げたらしいが、ケガ人は出なかったと聞いた。
 それでもマイケルは町の周辺を散歩し、すてきな1日を過ごした。




次の日9月19日(日)は、マイケルのイスラエルでのショウ初日だった。
 私はいつものように最前列に行ったが、テルアビブでは柵が二重になっていてガッカリした。
 人生最悪の出来事のひとつにも思えたが、マイケルがステージに現れると、そんな事はどうでもよくなってしまった。

 10万人を収容できるハヤルコン・スタジアムは大きくてエキサイティングで、聴衆も全てが素晴らしかった。
 パフォーマンスの間、マイケルは何度も歌うのを中断して歓声に応えていた。
 "She's Out Of My Life" で選ばれてステージに上がった女の子は、マイケルが着いた日に歩道で泣いていた子だった。 彼女の夢が今日叶うだなんて一体誰が思っただろうか。

 けれど、何と言っても素晴らしいのは、"Heal The World" だ。 それは重厚な聖歌隊の歌のようだ。
 皆この歌を全部覚えていて、皆で歌ったらマイケルはマイクを下に置き、両手を広げ、歌の中に皆の気持ちを受け止めた。
 どんなにマイケルがステージの上で楽しんでいるかを見るのは、本当に素晴らしい。 本当に思い出に残るコンサートだった。



 9月20日(月)、マイケルはショウの休日だった。
 しかしそれはマイケルが一日中ホテルに篭もっているという事ではない。 今までも彼は動物園や買い物に何度か出入りしている。


買い物中のマイケル




ツドゥルフンの軍事基地にて女性兵士軍との撮影も


 午後マイケルは、テルアビブ子供病院を訪問した。
 他のドイツから来たファン達とタクシーで病院へ行くと、マイケル達よりも先に着いてしまい、簡単に中に入れた。 マイケルの到着をドキドキしながら待った。

 しばらくホールにいてマイケルのいる病棟に行こうとしたけれど、そう簡単にはいかなかった。 7階に上がりマイケルの行くガン病棟へ行ってみたが、閉められていた。
 私はマイケルを50mの距離で見ることが出来たけれど、それ以上近づくことは出来なかった。 マイケルは10分ほどそこにいた。



 マイケルの去ったあと私も7階に行ってみたが、子供病院を訪れたことのある人は、小さな子供がこんなにも過酷な体験を黙って耐えているのを決して忘れないだろうと思う。
 このことを考えると、マイケルがどうして子供病院を何度も訪れるのか解るだろう。 マイケルは、ただただ子供を救いたいだけなのだ。



 その夜、マイケルはバルコニーに姿を見せ、しばらくそこにいた。
 花やサインを投げたりして、たっぷり40分はそこにいて、彼自身もはしゃいで楽しんでいた。
 一度などは、マイケルはサインを持ってバルコニーの角に行き、それを投げる前に柵へ登り、足を柵の上に置いた。
 マイケルが10階にいて、彼の足は地上30mの所でぶらぶらしているのを想像できる?! 下にいる私たちはもう心臓が止まりそうだった。
 でもマイケルは笑って、やがて足を引っ込めた。


(※当時の写真ではありません)

 しばらくしてマイケルのボディガードが彼のところにやってきて何かを訊いていたが、マイケルは彼らを向こうにやってしまった。 ボディガードがメガホンを持って再びマイケルのそばにやってくるまで、そんな事が何度か繰り返された。
 マイケルはメガホンを受け取ると、何かわけの判らないことを叫んだ。
 皆が大きな声で 「何?!」 と訊き返すと、マイケルはもう一度繰り返したが、誰にも何を言っているのか判らなかった。 私は、「僕はまだ行きたくないよ」 と言ったように思えた。

 それからボディガードがメガホンを取り、皆に 「マイケルはもう寝なくてはいけない」 と言った。
 7時に??
 そしてマイケルがメガホンを通して
 「みんな! おやすみ! 愛してるよ!」
と言って部屋に入り、その夜はそれっきり姿を現わさなかった。



 9月21日(火)、2回目のステージ。
 二重になっている2番目の柵は、1回目の時よりもさらにステージから離されてしまっていた。
 しかしマイケルがステージ上に登場した瞬間、全ての辛苦は彼の魔法の呪文でチャラになるのだった。

 イスラエルのファンは素晴らしかった。
 例えばマイケルが、
 「今度は懐かしい曲をやるよ。 何だか判る?」
と言うと、皆が声を合わせて 「何~?」 とマイケルに返すのだった。 マイケルはクスクス笑っていた。
 でももう一度言うけど、私がいちばん好きなのは、10万人で歌う "Heal The World" だ。

 今回のことで、私にとってイスラエルは特別な場所として心に残った。
≪リポート: フレイヤ・ウィアリンガさん≫


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ISTANBUL= イスタンブール@トルコ =

 マイケルが着くより1日早い前日の夜遅く、私はオランダの友人2人とイスタンブールに着いた。






 次の日の朝早くに私たちがしたことは、チケットを買うことだった。
 それから私たちは、マイケルが泊まっているモーベンピック・ホテルを探しに行った。 親切なトルコの少年が乗るバスを教えてくれたので見つけるのは難しくなかった。

 ホテルに入ると、多分私が銀製品をたくさん付けていた為に警報器が鳴ってバッグの点検を受けたが、セキュリティーが銀の帽子を見るとマイケルのクルーだと思って私を通してくれた。
 すぐに男の人が来て、私たちの持っているものは何かと尋ねた。 私たちはマイケルに渡したいプレゼントを見せた。 彼は、中でも手作りの人形に興味を示し、写真を撮った。 彼はBRAVO誌(ドイツの音楽雑誌)で仕事をしている人だったのだ。
 私たちがマイケルのことをよく知っていたので、彼は私たちをホテルのマイケルのディナーに招待してくれた。

 ディナーの席で、カリーナという女性を紹介された。
 彼女はあるコンテストの勝者で、今日マイケルに会える予定で、なおかつ昨年 BRAVOアウォードをマイケルに持って行った人である。
 警官が道路を整理している時に料理はすでに運ばれていたが、マイケルが来た気配がしたので皆ディナーをそのままにしてホテルの外へ走り出た。

 その夜 友人はラッキーにも、マイケルがホテルで映画 『ジュラシック・パーク』 を観に行くところに出くわした。
 マイケルは映画が終わった後、そこの壁に大きなサインをした。



次の日はコンサートだった。
 何とか最前列の中央に陣取れた私に、マイケルのクルー達が下りてきて 「お馴染みのその位置でまた会えるだなんて素晴らしいね」 と、声をかけてくれた。 彼らと話せて嬉しかった。

 前座はカルチャーピットが務めた。 前座が付いたのは、モスクワとテルアビブと ここイスタンブールだけだ。

 マイケルはコンサートの間中、とても幸せそうだった。見知ったファンを見つけるとVサインをし、絶えず投げキッスをしてくれた。
 コンサートの中身は前回('92年)とは違っていて、 "Beat It", "Workin' Day And Night", "Man In The Mirror" がなく、天使も現れなければ 上昇ステージも無かった。
 しかしそれでコンサートの出来はというと、最高のものであった。

マイケルは日本で着ていた黒い "JAM"の衣装で登場した。
 J5メドレーで唐突に昨年使用したホログラムの "JAM"ジャケットを着用し、そしてまた驚いたことに、 "Will You Be There" では彼によく似合う "Heal The World"のジャケットを着ていた。

 "Dangerous"は、まさしくAMA'93を観ているようで不思議な感覚だった。
 私の一番好きなパフォーマンスでもあるので、もう完全に狂いまくった。
コンサートは "Heal The World" で終わってしまったけれど、逆にそれでメッセージがより強くなると私は思った。

 ものすごく疲れたけれど、私たちは皆 とても満ち足りた気分でそれぞれのホテルへと帰っていった。



 翌日、マイケルはイスタンブールを発つ予定を変更し、ドルマバフチェ宮殿へ行った。
 そしてその翌日に、次のテネリフェに向けてトルコを後にした。


ドルマバフチェ宮殿にて
≪リポート: ウィリー・ギッツマンさん≫


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TENERIFE= テネリフェ@スペイン =

 9月24日、私はメリア・ボタニコホテルのマイケルが泊まる5階にいた。
 マイケルの部屋の中が少し見えた。 花とプレゼントでいっぱいだった。







 9月25日、その日はもう5階へは行ってはいけないとボディガードが押し戻していた。 外には既に数百人のファンが集まっていた。
 私はホテル内で唐突にマイケルのママ・キャサリンと姉のリビーと ターバンを巻いたマイケルのコックを見かけた。
 その時外で叫び声が上がり、フロント係がマイケルはもう部屋にいると教えてくれた。 何ということ! 4時間も待ってポカしてしまった。

 そこで私たちは、バルコニーに向かって マイケル!マイケル!と叫ぶと、マイケルはバルコニーに姿を見せ、ファンを指差したり 手を振ったり、カメラマンのサムを呼んできてファンを撮影させたり、楽しそうに4回も出たり入ったりしてくれた。




最後のショットは本レポート筆者のリア・デロングさん撮影

 その後、私たちが食事をしているとサイレンが聞こえたので、食事を放り出してホテルの前へ行ってみると、マイケルがロロ・パークから戻って来たところだった。
 ロロ・パークは外国産のいろいろな鳥が沢山いて、アシカやイルカのショウもある。 その日のショウは、マイケルの座っている方を向いて重点的に行われたらしい。

 その後マイケルはレコードショップを訪れ、自分のCDを含めてたくさんのCDを買い込んだ。
 そこの店のウィンドウには今、マイケルのサインが飾られている。



 9月26日、ロビーに座っていると、ビル・ブレイに出会った。
 私には考えがあって、マイケルの本 『Dancing The Dream』 を腕に抱え、彼にあるお願いをした。
 「多分大丈夫だと思うけど、ちょっと待ってもらえれば本を返すから」
という返事だった。
 私は大好きな本を渡し、ルームナンバーを伝えた。

 その夜のコンサートは、夜10時に始まった。


コンサート会場へ向かうマイケル

 "She's Out Of My Life" の時に、スペインの人たちが 「Ayay, ja, ja」 と歌い始めた。
 マイケルは水の入ったグラス(プラスチック?)を空中に投げてから、自分も水を一杯飲み干しました。

夜中の2時半、やっと眠りについた頃、ドアベルの音で起こされました。
 今ごろ誰? とナイトドレスのままドアを開けると、私の本を持ったマイケルのコックさんが立っていた。
 「あなたはラッキーだったね。 3ページ。 おやすみ」
と言い、去っていった。
 彼にお礼を言い、本を見るとサインが2つあり、また眠れなくなってしまった。



 翌朝、マイケルは空港へ向けてホテルを後にした。
 なんだか空っぽになってしまい、その時の気持ちは説明できない。

 私は、マイケルの去った後の5階へ行ってみた。
 しばらくするとドアが開き、中を見ることが出来た。
 なんという散らかりよう! 紙がそこら中にあった。 マイケルがプレゼントを片っ端から全部開けて、包装紙をそのまま床に散らかしたのだ。

 マイケルは、いつもソフトで高い声で挨拶をしていたので、セキュリティーはマイケルのことを 「Highson」 と呼んでいたらしい。



 翌28日、私にとって大切な日となった。
 バルコニーで 『Dancing The Dream』 を読んでいると、突然、3番目のサインを見つけた。
 とてもはっきりした字で 【 I love you MJ 】 と書いてあった。
 コックさんが 「3ページ」 と言ったのは、この事だったんだ。

≪リポート: リア・デロングさん≫


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番外 : GSTAAD= リズの別荘 - グシュタード@スイス =



マイケルはテネリフェでのコンサートの後、ツアーの疲れを取るため
スイス・グシュタードにあるリズの別荘に滞在した。


南アフリカの政治暴動が収まらず、同地でのコンサートが1週間前に中止が決定した為
急きょ休暇が取れることとなった


 9月27日、マイケルは村の誰かがマスコミに知らせるまで2日間、のんびり過ごせた。
 私はその家を見て 至って普通の建物だと思った。 ゲートもセキュリティーも無く、歩いて行ってドアベルを押せるほどだ。 勿論そんなことはしなかったけれど。
 最初、私たちはここにいても良いかとボディガードに訊いたら、彼はいいと言ってくれた。 記者だったら問題なのだ。



 何日か後、私たちは寒い雪まじりの雨の中で待っていると、ついに頑張りが報いられた。
 土曜の午後、マイケルは外にいるファンにメッセージを送り、その夜、少なくとも40分は話が出来た。

 夜遅く、マスコミやファンが帰った後も10人ほどのファンと一緒に、マイケルの窓から3mのところに立っていた。
 そうしているうちに私たちはネズミを見た。 するとごく自然に "Ben" を歌い始めていた。
 半分も歌わないうちに、マイケルが窓のところに立って手を振ってくれた。 それからマイケルは灯りを消し、窓を開けた。 私たちは、"Someone In The Dark" を歌いだした。
 歌が終わると、マイケルが言った。
 「素晴らしかったよ。 何も出来なかったけど思わず窓を開けちゃったよ。 開けなくちゃ、って思ったんだ」。

マイケルが私たちに、好きな歌は?と尋ねるので、何曲か挙げると、マイケルは自分の好きな歌を教えてくれた。
 驚いたことに、"Music And Me" や "Happy", "Ben"等はもう歌わないと言うのだ。

 さらに、ファンをとても愛しているとはっきり言っていた。
 私たちのうちの誰かが 「I love you」 と言うたびに、マイケルは 「I love you more」 と応えていた。
 一度などは、こう言っていた。
 「どんなに君たちが僕を愛していると言っても、僕はその何兆倍も愛しているよ。だってそう思うんだもの」。

 13歳の少年への疑惑については、こう言っていた。
 「神様がどうしてこんな事をするのかは解らないけれど、僕は甘んじて試練を受けるよ。ガンジーやキリストがそうだったようにね」。
 そして、音楽の力を借りて人々をひとつにし、世界をより良くするのは自分の使命だとも言っていた。

 その場にいた母親らしき女性が、
 「男の子はみんなマイケルみたいに踊れるのよ」
と言うと、この人の子供がダンスを始め、皆が拍手をした時、マイケルは大きな声で
 「素敵な話だね。ありがとう」
と言って、次の日その子供は招待された。

 40分ほど話をした後、
 「いま何時だかわかる?」
とマイケルが訊いた。 時刻を教えると、
 「ちょっと風邪気味なんだ。 もう部屋に戻らないと」
と言った。
 私たちは彼にさよならを言ってホテルに戻った。



 火曜日には、村の10人の子供たちが招待された。


 あの日に起きたことを思うと、今でもドキドキします。 疲れたけれど、素敵な思い出が増えて とても満足した気持ちでいっぱいです。
≪リポート: マリーク・サルトンさん≫


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